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Life will be beautiful

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三度目の正直

6月で失業手当の給付も終了予定だったため、ギリギリセーフでの就職。
新しい就職先は旦那が今までやっていた業界にかぶるものがあり、過去の人脈を生かせるだろうと期待に胸を膨らませていた。
会社側も旦那を経験者として優遇してくれて、役職までつけてくれた。
社長を含めた社員もフレンドリーで、慣れない旦那に協力的であった。
つまり、会社としては家族的には満足できるところに就職できたのだ。

しかし、旦那は満足しなかった。
というのは仕事内容が思ってた以上に合わないそうだ。
同じ営業の仕事でも手法が異なるため、旦那としては今まで通りが通用せず、歯がゆい思いをしているとのことであった。

私的には郷に入っては郷に従え精神で、やるしかないと思う。
旦那の希望で家族一同福岡までやってきて、その後再び無職となり、ようやく手にした仕事。
合う合わないではなくて、自分が合わせなきゃいけないのだ。
そんなに不満を言うのであれば、前の会社をなぜやめたと言いたい。

それでも、毎日ため息をつきながら帰ってきて、仕事がうまくいってないことを愚痴られると、こちらも滅入ってくる。
会社の人も給料も不満はないけど、仕事の手法がどうしても自分に合わないと。

どんだけ人を引っ掻き回したら気が済むんかいっ!
自分の成績がよくないのを会社のせいにすんなっ!!

↑のようなことをもう少し冷静に言った。
ただ仮に旦那の成績が良くなったとしても、旦那自体が今の会社の営業手法を楽しんで受け入れるとは考え難かった。
そして、私は旦那にある条件を付きだした。

もう1回だけ転職を許す。
その代わり、もう失業手当は出ないのだから、在職中の転職を目指してほしい。
あと不安がるので、義母には内緒で活動をすること。
もし3度目もポシャった場合、私は実家に帰る。

はい、離婚を匂わせる発言をしてしまいました。
でも、そのぐらいの覚悟で臨んでもらわないと、こっちだっていつまでもいいよ、いいよとは言えない。
ただし、現在の会社もまだ試用期間の身。
あまりに転職活動に力を入れすぎて、転職もうまくいかないわ、試用期間終了時に首切られるわとなったら、話にならない。
現在の会社で正社員になれるよう気合いをいれて仕事に臨むことも条件とした。

今回の一連の旦那の転職騒動。
まだ終了とはなっていないが、方向性はたったかな?

旦那が会社を辞めると言ったときは、会社に大いに問題があると思っていた。
だが、蓋を開けてみると、もちろん会社の体制自体もよくないところはあるのだが、旦那自身にも問題があると思われた。
そのことに旦那自身が気付けた今回の転職はある意味やってよかったかもしれない。
だから、妻としてもその気持ち新たに再出発できる会社に勤めてほしいと思っている。
それが今の会社となるのか、三度目の正直となるのか、はたまた最悪な結末を迎えるのか、それはまだ誰も知る由もない。

by dckuma | 2016-07-29 15:38 | かぞくのこと | Comments(4)

プロジェクト

昨年旦那が転職を決意し、その後の就職活動で、旦那希望の福岡での就職が決まった。
希望に胸を膨らませ、家族共々福岡にやってきたものの結局有期雇用契約終了時点で、仕事は終了となった。

再び無職となった旦那。
私は身重の身。
しかも里帰り中でもあったため、旦那の状況が今一つわからず。

毎日のように電話をし、就職活動の進み具合を尋ねるが、私の焦りとは裏腹に旦那はのんびりしているように、感じた。
実際はそうではなかったとは思う。
でも、私は旦那の福岡転勤のため、自分の職場を退職してきたのだ。
お互い無職ではいずれ生活に支障をきたす。
旦那は旦那で一生懸命なのもわかっていたが、仕事を辞める時の段取り含め、慎重さに欠け、金銭的な面を含めどこか私に甘えがあるような気がした。

そして、出産後。
慣れない授乳などで気が滅入っていたところに遅々として進まない就職活動に苛立ちを覚えた。
だが、イライラしても何も前に進まない。
性格上何かしていないと落ち着かない。

ってことで、私は旦那の就職活動を里帰り先から手伝うことにした。
世の中、ネット社会。
検索すれば、転職関係のサイトがずらり。
私は毎日のようにこれらのサイトを検索し、旦那に合うかなと思う会社をメールした。

すると、旦那は検索する時間が省け、会社概要については自分で調べるとしても、以前より履歴書作成などに時間を割くことができるようになった。
旦那はもともと検索などの要領を得ないことが多く、私が手助けしたことにより効率的となった。
おかげで、今までよりも多くの会社に応募することができた。
私たちはこれを「dckumaプロジェクト」と呼んだ。

その結果、履歴書で断られるところももちろんあったが、面談までこぎつける率もアップした。
さらには内定も何社かいただき、最終的には「選ぶ」という形で新たな就職先を見つけるに至った。

それが5月中旬の出来事。
新しい会社は条件的には2か月しか在籍しなかった前会社よりもいいものだった。

ちゃんちゃん
と終わりたいところだが、続く・・・。

by dckuma | 2016-07-28 17:04 | かぞくのこと | Comments(0)

目次

さて、ブログを再開したものの、どこから書き始めていいのかわからないぐらい濃密だったこの数か月。
地震のことは一番に書くとは決めていたが、その他はノープラン。
とりあえずこれから書く予定のおおざっぱな内容をご紹介。

・旦那の転職その後
・初めての同居生活with義母
・ハル君成長日記
・私の職探し

上記内容でお送りいたします★


by dckuma | 2016-07-27 17:10 | ひとりごと | Comments(0)

続 1カ月目の試練

夜になり、単身赴任先から父が自宅に帰ってきた。
父は同じ熊本にいながらも震源地よりは離れた場所だったため、何とものんきだった。
「おおげさな。ビールもってこい。今日はハルと最後の日なんだ。」
実は地震が起ころうと起こるまいと私とハル君は週末に旦那に迎えに来てもらって福岡に帰る予定であった。
でも、さすがに母や弟よりも楽観的な私でも万が一・・・のことを考え、父にノンアルコールビールで我慢しろーと怒った。
父はしぶしぶノンアルコールをちびり。
その日は湯船にはつからず、お風呂の水は貯めたまま、シャワーだけ浴びて皆早めに床についた。

そして、16日午前1時15分。
ハル君がお決まりで泣き出した。
もう、3時間たったのか・・・と寝起きですぐに体が動かないため、ハル君をしばらく抱っこしてあやしていた。
そろそろミルクの準備でもしようかな、と思ったとき、突然うなるような音ともに激しく家がガタガタガタと揺れだした。
遠心分離機の中に自分がいるのではないかと思うような回転するような揺れで、それははるかに14日のものと異なった。
とりあえずダイニングテーブルの下に隠れようと襖を開けた瞬間、常夜灯にしていたはずのリビングの電気がパッと消え、一瞬で暗闇に包まれた。
しかも、その時にはあまりの激しい揺れで、襖につかまっているのが精一杯。
その場でハル君を抱きしめてうずくまった。
ダイニングやキッチンの方からは次から次へと食器が割れる音が聞こえ、家もミシミシ、メキメキと音を立てていた。
私、このまま家の下敷きになって死ぬかもしれない・・・、本気で思った。

だが、どのぐらいつづいただろうか。
激しい揺れは一旦治まった。
私もハル君も無事だった。
しかし、余震はひっきりなしに続く。
私は用意していた荷物を手にした。
すぐに2階から母と弟も荷物を持って降りてきた。
彼らは私服を着たまま寝ていたようだった。
「早く家を出よう!!」
けれども父がなかなか降りてこない。
「お父さん、何してるの!!」と私は叫ぶ。
母は父と同じ部屋で寝ているので無事なのはわかっていた。
ようやく降りてきた父はパジャマ姿で「うん、うん」と何にうなずいているのか、とにかく放心状態だった。
そのまま靴を履き始める父。
「お父さん、カギは??車のカギは??」
「カギ・・・?ああ・・・どこだったけ・・・?」
全く役に立たなくなった父の代わりに、いつもの書斎の机の上だろうと予測した弟が懐中電灯片手にカギを取りに行ってくれた。

外に出ると近所の人たちも皆外に出てきていた。
私たちは急いで車に乗り込んだ。
けど、どこに行く?
家の駐車場も下手したら危ないかもしれない。
と、咄嗟に私は前日の会話を思い出した。
「近くのパチンコ屋、やたらと駐車場広くて邪魔なのよねぇ。どうせだったらショッピングセンターとかだったらいいのに」
そうだ、パチンコ屋の駐車場だ!
私は即座に提案、満場一致で駐車場に向かった。

高い建物が周囲にない田舎独特のだだっ広い駐車場は地震の時には心休まる場所と化した。
私たちは地震発生から20分後にはパチンコ屋の駐車場にいたが、普段埋まるることのないココが満車になったのは皆、家の中にいれる状態ではないことを物語っていた。
時間はまだ午前2時頃。
明け方までまだ時間がかなりある。
ハル君は私に抱かれた安心感かスヤスヤ寝ていたが、さすがに授乳を一回スキップ状態で逃げてきたため、途中でぐずりだした。
だが、私はあろうことが哺乳瓶を自宅に忘れてきてしまったのだ。
14日の地震後は哺乳瓶を1本だけバッグにいれていたものの、15日は余震が減少傾向だったため、取り出していた。
しかも、地震が起こったとしてもテーブルの上に置いてあるし、持って逃げれば、いいかと簡単に考えていた。
今思えば哺乳瓶があったところで、お湯がなかったため、作れなかったのだが。
幸い保護器を持ってきていたため、母乳を代わりに与えた。
でも、ただでさえ出の悪い母乳は地震のショックと脱水気味でさらに出が悪くなっていた。
それでも、ハル君は満足して寝てくれた。

車の中でも頻繁に襲ってくる余震に怯えながら、水分補給とエコノミー症候群防止のため、外に出て屈伸運動をしながら朝をひたすら待った。
この頃には父も冷静になっていた。
5時半を過ぎてくると徐々に空に明るさが出てきた。
その間、これからどうするかをみんなで話し合った。

暗闇でよくは見えなかったが、家の中は住める状態ではなさそう
避難生活が必要かもしれない
単身赴任先の父の家に行ってもよいが、同じ熊本県内だし、アパートの1階だし、不安
とりあえずハル君を無事なところに連れて行かないといけない
ハル君と私を旦那の待つ福岡へ連れて行こう

6時ごろになり、私たちは一旦自宅に戻った。
家の中に入ると、足の踏み場もないぐらいものが散らばり、キッチンに至っては食器類のみならず、母がつけていラッキョウや梅干しの瓶が割れ、悪臭を放っていた。
お風呂も洗面所も私たちが寝ていた和室もめちゃめちゃだった。
幸い致命的な傷はなさそうだったが、とても住める状態ではなかった。

私達は車に荷物を詰め込み、すぐに福岡に向かった。
時間は午前7時ごろ。
熊本を出ようと考えた人間はあまりいないらしく道はすいていた。

福岡につくと、週末だったこともあり、道端で遊んでいる子、買い物客でにぎわうショッピングゼンターなどなど日常があふれていた。
その光景にすごく安心したのを覚えている。
私とハル君は旦那のまつマンションに送ってもらい、両親と弟は母の親戚の家に数日間泊めてもらうこととなった。

熊本を離れたことにより私も含め両親たちも余震の恐怖を感じずに夜を過ごせた。
福岡についたその日はずっと地震が起こっている感覚があったのだが、翌日にはその感覚も消失。
両親も冷静になれて、今後も自宅のことについても考えられるようになったとの事。

そして、今。
熊本の実家は耐震診断の結果、合格。
2回の震度6越えの地震に耐え抜いた築25年の家、バンザイ。
父の単身赴任先を拠点に家を片付け、現在日常が戻っている。


by dckuma | 2016-07-20 11:05 | ひとりごと | Comments(4)

1ヵ月目の試練

ずーっと書きたかったこと。
だいぶ記憶も薄れてきたけど、備忘録として書いておくべきこと。

3月に息子ハル君を出産。
授乳にはかなり手こずり、退院時に生理的体重減少を超えて体重が落ちていた。
それでもミルクを併用しながら授乳し、1ヵ月検診では体重が理想的な増加を示していることが分かり、ほっと胸をなでおろした。
今のところ順調だし、そろそろ旦那の住む福岡に帰ろうか、と思っていたころ、あの日がやってきた。

4月14日はいつもと変わらない1日だった。
21時ごろハル君がいつものようにお腹がすいたと泣き出した。
ふと見ると、飲んだ後に時々コポッと吐くハル君の口を拭くティッシュがない。
新しいティッシュを取りに部屋を出て、戻る。
ティッシュの口を開け、私たちが寝ている和室の襖をあけてすぐ横のリビングのごみ箱にフタを捨てようと半歩部屋を出たところ、突然メキメキッと音がして、激しく家が揺れだした。
そう、熊本地震である。
私は里帰り出産のため、熊本に帰っていたのだ。

けたたましくなる携帯音。
ヤバイ!!
すぐに2-3歩先のハル君のところに向かおうとした。
たかだか8畳間の襖の対側に寝ているハル君のところに行くだけである。
だが、想像以上の激しい揺れにハル君に覆いかぶさるように倒れた。

どのぐらい続いたか今まで経験した地震よりもはるかに激しい揺れと長さであった。
地震がおさまると、2階にいた弟、キッチンにいた母とみんなでリビングに集合。
テレビをつけたところ、まさかの熊本が震源とのこと。
実家は比較的震源地に近かったため、相当揺れたのであった。
しかし、幸いライフラインは保たれており、和室にあった花瓶や仏壇周囲の小物たちが転がったりしたものの食器一つ割れず、被害というものはほとんどなかった。
でも、余震がその後も頻繁に訪れたため、私たちは万が一に備えて必要最低限の荷物だけまとめ、すぐ飛び出せるように洋服をきて、みんな1階で寝ることにした(ま、私とハル君はもともと1階で寝てたけど)。

といっても、続く余震と3時間ごとの授乳でほぼ眠れず。
それに加え、地震が起こった時に一瞬ハル君のところに行く前に自分の立っていた場所近くにあった貴重品をもって、ハル君のところに行こうとした自分を「母親失格だ」とひそかに責めていた。
貴重品よりも何よりもわが子が一番だろ!と。

不安と自責の念にかられながらも夜が明けると、少し気分も落ち着いた。
しかし、益城町の惨状をテレビでみて、被害の大きさを知った時、再び恐怖に包まれた。
幸い我が家のライフラインは保たれており、心配性の母のおかげで食べものや水のストックもたくさんあったため、再び起こるかもしれない地震に備えて、食器戸棚の扉を輪ゴムでぐるぐる巻きにしたり、仏壇の観音開きドアに割りばしはさんだり、昨日転がったりした飾り物などは撤去した。
落ち着いたら地震対策グッズを購入しなきゃねーなんて話しながら。

そう、この時私たちは次の地震に備えながらも心のどこかでこのまま終息するだろうと思っていた。

つづく・・・

by dckuma | 2016-07-15 23:19 | ひとりごと

妻として、母として、医師として