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Life will be beautiful

続 1カ月目の試練

夜になり、単身赴任先から父が自宅に帰ってきた。
父は同じ熊本にいながらも震源地よりは離れた場所だったため、何とものんきだった。
「おおげさな。ビールもってこい。今日はハルと最後の日なんだ。」
実は地震が起ころうと起こるまいと私とハル君は週末に旦那に迎えに来てもらって福岡に帰る予定であった。
でも、さすがに母や弟よりも楽観的な私でも万が一・・・のことを考え、父にノンアルコールビールで我慢しろーと怒った。
父はしぶしぶノンアルコールをちびり。
その日は湯船にはつからず、お風呂の水は貯めたまま、シャワーだけ浴びて皆早めに床についた。

そして、16日午前1時15分。
ハル君がお決まりで泣き出した。
もう、3時間たったのか・・・と寝起きですぐに体が動かないため、ハル君をしばらく抱っこしてあやしていた。
そろそろミルクの準備でもしようかな、と思ったとき、突然うなるような音ともに激しく家がガタガタガタと揺れだした。
遠心分離機の中に自分がいるのではないかと思うような回転するような揺れで、それははるかに14日のものと異なった。
とりあえずダイニングテーブルの下に隠れようと襖を開けた瞬間、常夜灯にしていたはずのリビングの電気がパッと消え、一瞬で暗闇に包まれた。
しかも、その時にはあまりの激しい揺れで、襖につかまっているのが精一杯。
その場でハル君を抱きしめてうずくまった。
ダイニングやキッチンの方からは次から次へと食器が割れる音が聞こえ、家もミシミシ、メキメキと音を立てていた。
私、このまま家の下敷きになって死ぬかもしれない・・・、本気で思った。

だが、どのぐらいつづいただろうか。
激しい揺れは一旦治まった。
私もハル君も無事だった。
しかし、余震はひっきりなしに続く。
私は用意していた荷物を手にした。
すぐに2階から母と弟も荷物を持って降りてきた。
彼らは私服を着たまま寝ていたようだった。
「早く家を出よう!!」
けれども父がなかなか降りてこない。
「お父さん、何してるの!!」と私は叫ぶ。
母は父と同じ部屋で寝ているので無事なのはわかっていた。
ようやく降りてきた父はパジャマ姿で「うん、うん」と何にうなずいているのか、とにかく放心状態だった。
そのまま靴を履き始める父。
「お父さん、カギは??車のカギは??」
「カギ・・・?ああ・・・どこだったけ・・・?」
全く役に立たなくなった父の代わりに、いつもの書斎の机の上だろうと予測した弟が懐中電灯片手にカギを取りに行ってくれた。

外に出ると近所の人たちも皆外に出てきていた。
私たちは急いで車に乗り込んだ。
けど、どこに行く?
家の駐車場も下手したら危ないかもしれない。
と、咄嗟に私は前日の会話を思い出した。
「近くのパチンコ屋、やたらと駐車場広くて邪魔なのよねぇ。どうせだったらショッピングセンターとかだったらいいのに」
そうだ、パチンコ屋の駐車場だ!
私は即座に提案、満場一致で駐車場に向かった。

高い建物が周囲にない田舎独特のだだっ広い駐車場は地震の時には心休まる場所と化した。
私たちは地震発生から20分後にはパチンコ屋の駐車場にいたが、普段埋まるることのないココが満車になったのは皆、家の中にいれる状態ではないことを物語っていた。
時間はまだ午前2時頃。
明け方までまだ時間がかなりある。
ハル君は私に抱かれた安心感かスヤスヤ寝ていたが、さすがに授乳を一回スキップ状態で逃げてきたため、途中でぐずりだした。
だが、私はあろうことが哺乳瓶を自宅に忘れてきてしまったのだ。
14日の地震後は哺乳瓶を1本だけバッグにいれていたものの、15日は余震が減少傾向だったため、取り出していた。
しかも、地震が起こったとしてもテーブルの上に置いてあるし、持って逃げれば、いいかと簡単に考えていた。
今思えば哺乳瓶があったところで、お湯がなかったため、作れなかったのだが。
幸い保護器を持ってきていたため、母乳を代わりに与えた。
でも、ただでさえ出の悪い母乳は地震のショックと脱水気味でさらに出が悪くなっていた。
それでも、ハル君は満足して寝てくれた。

車の中でも頻繁に襲ってくる余震に怯えながら、水分補給とエコノミー症候群防止のため、外に出て屈伸運動をしながら朝をひたすら待った。
この頃には父も冷静になっていた。
5時半を過ぎてくると徐々に空に明るさが出てきた。
その間、これからどうするかをみんなで話し合った。

暗闇でよくは見えなかったが、家の中は住める状態ではなさそう
避難生活が必要かもしれない
単身赴任先の父の家に行ってもよいが、同じ熊本県内だし、アパートの1階だし、不安
とりあえずハル君を無事なところに連れて行かないといけない
ハル君と私を旦那の待つ福岡へ連れて行こう

6時ごろになり、私たちは一旦自宅に戻った。
家の中に入ると、足の踏み場もないぐらいものが散らばり、キッチンに至っては食器類のみならず、母がつけていラッキョウや梅干しの瓶が割れ、悪臭を放っていた。
お風呂も洗面所も私たちが寝ていた和室もめちゃめちゃだった。
幸い致命的な傷はなさそうだったが、とても住める状態ではなかった。

私達は車に荷物を詰め込み、すぐに福岡に向かった。
時間は午前7時ごろ。
熊本を出ようと考えた人間はあまりいないらしく道はすいていた。

福岡につくと、週末だったこともあり、道端で遊んでいる子、買い物客でにぎわうショッピングゼンターなどなど日常があふれていた。
その光景にすごく安心したのを覚えている。
私とハル君は旦那のまつマンションに送ってもらい、両親と弟は母の親戚の家に数日間泊めてもらうこととなった。

熊本を離れたことにより私も含め両親たちも余震の恐怖を感じずに夜を過ごせた。
福岡についたその日はずっと地震が起こっている感覚があったのだが、翌日にはその感覚も消失。
両親も冷静になれて、今後も自宅のことについても考えられるようになったとの事。

そして、今。
熊本の実家は耐震診断の結果、合格。
2回の震度6越えの地震に耐え抜いた築25年の家、バンザイ。
父の単身赴任先を拠点に家を片付け、現在日常が戻っている。


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Commented by kankiti55555 at 2016-07-21 00:01
こんにちは dckumaさん
今年の熊本は地震、豪雨と大変ですね。
御自宅や御家族が無事で何よりです。

高知もいずれ南海地震がやってくるそうですが
十分な対策は出来ていません。
脳天気に生活しています。

長男、次男は県外に住んでいるので
県外の事件や災害のニュースに敏感に成ってしまいます。
今年、長男はイスタンブール経由でドイツに旅行する予定でしたが、クーデター騒ぎで経由地を変更するそうです。

ハル君が成人する頃には日本や世界はどうなっているのでしょうね。
Commented by さざ波moo at 2016-07-21 17:54 x
赤ちゃんがいて、震度6の地震に2度も襲われたんじゃ大変でしたね。
余震もそれなりに多かったでしょうし、よくまあ ご無事で・・
そんな時、家族がいるのは心強いこと。でも、津波が来なくて良かった!
東日本大震災では、津波で行方不明や亡くなった人も多かったでしょうから。

神戸の震災で、ウチは8階建てマンションが全壊措置でした。ローン途中で
建て直しでのダブル・ローン、おまけに借家代で生きた心地ナシでした。

しかし、dckumaさんの2度の震度6に耐え抜いた「築25年のお宅」には、
心底、敬意を表します。家の中、メチャクチャになり乍ら合格とは・・!
施工業者さんは、何処ですか? ホントに表彰もの、万歳三唱です。
何はともあれ 皆さま、ご無事で何よりでした。
Commented by dckuma at 2016-07-26 18:32
kankiti55555さん

まさか自分がこんな大地震に遭うとは思ってもいませんでした。
母は引くぐらい慎重派で常に災害用に水、食べ物のストックもおいてましたし、家を建てるとき作り付けの家具にしてもらい、家具が倒れてこないようにしてました。

食器などは割れてしまいましたが、誰も怪我せずに無事だったのもそのおかげかもしれないと今は母に感謝しています。

ドイツ旅行は予定通り行かれるのでしょうか?
このコメントをいただいたあとにドイツでもテロのようなことが起こっていたので。

ハル君をつれていろんな国を旅したいと思っていましたが、しばらくは様子をみようと思います。
平和が戻ってくるといいんですが。
Commented by dckuma at 2016-07-26 18:39
さざ波mooさん

地震はほんと怖かったですけど、命があって何よりです。
ハル君を産んで1か月経っていたことも不幸中の幸いかもしれません。
産んだ直後とかだったら帝王切開の痛みや授乳のトラブルなどいろんなことでパニックになっていたかもしれません。

神戸の震災の時に全壊措置になったんですね。
それは大変でしたね。
地震保険に入っていたのでしょうか?
二重ローンと借家代・・・考えただけでも恐ろしいです。

実家はS×Lという会社で建ててました。
耐震診断をしにきてくれた方からはむしろ家にいる方が安全かもとまで言われたそうです。
とはいえ、3回目に同じ規模のものがきたら耐えられるかは誰もわかりませんけど、ひとまずほっとしました。
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by dckuma | 2016-07-20 11:05 | ひとりごと | Comments(4)

妻として、母として、医師として